ロシアン ルーベッド

SF小説です。自分の殻を破った「新しい価値観」というものを考えてみました。

ロシアン ルーベッド 2-9節 エピローグ

9節 エピローグ

 

 数分経って、今度は軽部がノックして入ってきた。

『タクさん、こんばんは。これで全員チェックイン完了です』

「やあ、お疲れ様」

 今ではオレが彼の上司なのである。そうそう、内容は怪しいけど今度は正規の仕事だから… もうお坊ちゃまの面倒を見るバイトは辞めたんだ。

 

『じゃ、失礼します』

「ちょっと、軽部さん」

『何でしょうか?』

「前にオレを飲みに誘ってくれましたよね、どうです、そろそろ?」

『あああ、それは言わない約束でしょ』

 

「約束はしてないけど… あのとき誰に何を言われたの?」

『あはは、は。面目ない』


 辺りを見回し、声を小さくして

『あれはチーフとサブチーフにいきなり呼びつけられて。今夜絶対誘えと厳命されまして』

「ついでに吐いてしまったら? まさかチクってないとは言わないよね、S階の話」

『あ、あ、あああ、あれは…』目を白黒させ、急に土下座して

『ホント済みませんでした。申し訳ありませんでした』

 

「あれでオレは3回ほど殺されかかったんですよ、か・る・べさ~ん」

『あ、あ、あ、すみませんすみません』

「だから今度おごってね。それでチャラにしましょうか」

『え、あ、あ、ありがとうございます。どんな高級店でも、喜んで』

「じゃあデンデン屋ね、よろしく。はいお疲れ様でした」

『あ、あ、ではまたよろしくです、はい、よろこんで、しつれいでした。どうも、はい』

 ワケのわからないことを口にしながら、チーフ室を出て行った。

 

 オレは腹を抱えて笑った。

 

 実は…後から聞いた話によると、あのときオレが何回か発見されたのにも、ちゃんと理由があったのだ。特にオレのあのキャンプ場を発見された理由がなかなか傑作だった。

 最初のうちは予想通りの展開だった。出入口前の監視カメラ、霊柩車のドラレコ、携帯の基地局からの絞り込み、防犯カメラの画像、出張中の社員の証言。やっぱり連携してる警察が本気を出すと恐ろしい。

 

 ところが、キャンプ場に逃げたときは、バスそして田舎道の徒歩利用ということで、皆目見当がつかなかったと言うのだ。それじゃなんで? とオレは食い下がった。

 中村サブチーフは大笑いしたあと、

『軽部のね、ひひひひひ』

 

『おい、恨むなよ。軽部のダウジング(注)なんだよ、あれ』

「えええっ! ダウジングロッド使ったんですか? そりゃ参ったな」

『軽部がここだって主張するから、まさかと思ったけどさ、電話してみたらビンゴ!』

「それじゃ恨めないな。まさかそんな才能があるとはね、彼に、あはははは」

『誰も信じてなかったからな。あそこまで行くと、ヤマ勘も神懸かりだ』

「ひひひひひ。かれが両手で棒持ってオレの行方捜しを? こりゃウケる!」

 

(注)ダウジング(Dowsing):元々は地下水や貴金属の鉱脈など隠れた物を、L次型などの棒や振り子などの道具を用いて発見するという方法。信者の間では、失くしたサイフやペット、水道管、病気の部位、宝石などの場所の見当をつけるために用いられる。科学的な証明はないが、自分の潜在意識の考えを知るテクニックとされている。

 

 こうして余計な犠牲を出さずに騒動は落着した。おれはこのIRに寄生して、これからもしっかり働くつもりだ。IRが悪いワケじゃなくて、それを利用したりされたりするヒトの運用の課題なんだよ、結局ね。


 光有るところに影は有る。それが世の中の理屈というやつだね、レナ。


 そうだ、レナとは正式にお付き合いをすることになったし、周りのみんなも祝福してくれた。

半年もすれば結婚できると思う。ありがとう、みんな。結婚式にはあのお坊ちゃまも御招待しようと思ってる。


 あ、そういえばヒナとの関係はどうなったのかな。今度一回遊びに行ってみよう。

 

 実は今も「ロシアン ルーベッド」は続いてるんだ。でも今のオレは賛成なんだよ、このシステムに。自分の命は、自分の好きなように使って良いんじゃないかって思ってるから。


 かの数学・物理学者のアイザック・ニュートンはこう言ったと伝えられている。

『天体の動きなら計算できるが、群集の狂気は計算できない』

ろくな観測機器のない時代に、よく気付いたと思う。何かって?

『リンゴが地球を引っ張ってる』っていうこと。

 

 そりゃ、地球はリンゴを引っ張ってるさ。でもリンゴが地球を、って言い出すのはある意味勇気が必要だと思う。たぶんみんなは、怒るか笑い出すだろうね。

 

 だから、群衆が言うことって、もしかしたら狂気で、正しくないかも知れないんだよ。底の底まで覗いてみたら、まったく違う真実の景色が見えてくるかも知れないのにね。

 

 オレは今、狂気から覚めた気がしてるんだ。幻想かも知れないけど、オレは信じてこの道を進む。

さあ、一緒に行こう、愛しい人よ!

 

 気分は青く、空は青く、海も青い。正確には都会らしく海は濁ってちょっと茶色っぽいが、この気分の妨げにはなりしない。オレはレナと一緒に暮らせる日を願っている。一時でも早くレナの近くで日々を過ごしたい。

 

 オレにとっての大事件は、ハッピーエンドを迎えた。

式場はすでにおさえてある。みんな、お先に…シアワセになるからね。



 …と、ここまでで終わりになるはずだった。(未完)



 実はここまでを序章にするつもりだった… のでした。


 でもなぁ… アクセス見ると読者さん少なそうだし、もう終わりにしちゃっても良いかしらん?(苦笑) …と決めないままに終わっておきます。


 とりあえず… 読んでいただいた方、ほんとうにありがとうございました。


 続編を読んでみたい方は、そうコメント入れてみてください。約束はできませんが、善処いたします。


                                楠本 茶茶

ロシアン ルーベッド 2-8節 安楽死

8節 安楽死

 

 ここでいう安楽死とは、「苦しまず、他人に迷惑を掛けることなく、望んで訪れる死」を指す。学問上の安楽死は… かつてオレが「死にたい」と思った時に、何度も調べたから、まだ覚えている。

 

 たしか、病気の予防・救命・回復・維持のための治療を開始しないまたは中止する「消極的安楽死」と、薬物投与や服薬で本人の意思に基づいて死に至る「積極的安楽死」とがあった。積極的安楽死とは、別の見方をすると、良く見れば自殺幇助、悪意で見れば他殺にあたるワケだ。現在世界で「他人による積極的安楽死」認めているところはというと…

 

 ダントツに歴史が古いのは一九四二年のスイスで、あとはおおむね二千年代にはいってからのベネルクス3国(ベルギー、オランダ《ネーデルランド》、ルクセンブルク)、 カナダ、オーストラリア、韓国あたりである。

 アメリカは例によって州ごとに異なり、オレゴン、ワシントン、モンタナ、バーモント、ニューメキシコ、カリフォルニアの各州が認めているという。ただし日本人がいきなり行って「死にたい」と言っても受け入れては貰えない。

 

 「安楽死」とはいえ殺人はできない。したがって実際には自殺幇助の形式で毒薬や点滴液などを提供するまでに留まり、自殺の開始は本人が選択するのだという。まあ当たり前といえば当たり前のことだ。

 

 日本では実情はどうあれ、消極・積極いずれにしても安楽死は認められていない。そこで現実と理想の狭間を縫う形で、こんなサービスなのかもわからない違法行為的システムが考案されたのだろう。

 巧妙なことは、これにはゲーム的な射幸性が付加されている点である。勝てば他人の死をじっくり観察できるし、ときには手を下すこともできる。負ければ自分の死を他人に見られてしまう。見られるとは、裏を返せば認知され、アピールできることなのだ。

 

 そう、スリルと実益を求めて、カネだけはあるヒマ人が群がってきたのだ。

 

 あれ? 巡り巡って、結局は平凡な結論に落ち着いてきた気がしてきた。結局これって、厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)じゃないのか?

 

 歴史マニアなら御存知の「厭離穢土欣求浄土」、これは徳川家康さまの旗印。他にも武田信玄さまの「風林火山ふうりんかざん)」とか、上杉謙信さまの「毘(び)」、石田三成さまの「大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)」なんかは聞いたことがあると思う。

 

 厭離穢土欣求浄土って、この世は汚くてヤダな、早く浄土(死後の世界)に行きたいな、みたいに見える。だから家康さまが

『討ち死にしてでも頑張ってこいや、徳川家のために』と督励する意味かと思ってた。

 

 改めて調べ直したら、上の解釈はかなり違ってたようで、本当は、現世の穢れた世界を厭(いと)い離れ、次の世では清らかな仏の国に生まれたい、という意味らしい。

 

 うん、やはりこっちの方がいい。だって救いがある気がするじゃん。

 

 かつて、かの数学・物理学者のアイザック・ニュートンはこう言ったと伝えられている。

『天体の動きなら計算できるが、群集の狂気は計算できない』

狂ってはいないはずなのに、ここのヒトのココロは、計算できるものではなかった。

そして… オレのココロも、今それに同化しようとしている。

 

 膨大な金額をホテルに預け、住む全員が念書にサインしてはじめてS階に住む権利が得られるというのだが…もうぶっ飛びすぎて、まだちょっと理解が難しい。

 

「ミナも…だけど、レナもサインしたの?」

『あ、うちはおじいちゃんとおばあちゃんが望んでいるの。二人を見送ったら、レナたちは退去するのよ』

「ふ~ん…それまでの、仮の住まいってことか。あとは… まあそういうことね、なるほどなるほど」

 

 ホントは、死体処理…とまで言いかけて、慌ててコトバを濁したオレ…。

 

 ホテルはこの「サービス」が外部に漏れないように、自前の霊柩車を保有し、死体検案書を書かせるために医者を雇い、おそらくは警官および警察に賄賂を使い、市役所の死亡届に関わるものを籠絡(ろうらく)し、火葬場にも鼻薬を利かせているのだろう。

 

 最初、あまりの衝撃に、いきなり受け入れることができなかった。

 

 本当だろうか… 夢じゃなかろうか?

部屋番号をシャフルするところといい、死を賭けるところといい、まさにアレみたいじゃないか。

 

 そう…

「ロシアン ルーレット」だ。

 

 リボルバー式の拳銃の、銃弾を込めた回転するシリンダーの代わりがベッドルームの番号になってるシステムなんだ。

じゃあオレがこのシステムに名前を付けちゃおう。

 

 「ってことは、レナ つまり… ロシアン ルーベッド ってことね」 

 

『うまいっ! そ、そういうことね』

レナが褒めてくれた。

見詰め会って二人で大笑いした。

 

 ガチャっとドアが開いて、

『やあ。こんばんは… こりゃどうも暑い夜だと思ったよ』

皮肉を言いながらサブチーフの中村が入ってきた。

 

 レナが足を引っ込めながら挨拶した。

『こんばんは、サブチーフ』

 

オレは周囲を見回し、声を潜めて語り掛けた。 

「ふふふ、今名前を付けてたんですよ、中村さん」

『なになに』

「S階のアレですよ… 、あの仕組み… ロシアン ルーベッドって」

 

『なにそれ?』

中村は褒めてくれなかった。つまらない顔をして、

『アレの? ふっ…便所行くわ』と出て行った。

 

『ウケなかったわねタク、ふふふ、おやすみなさい』

「む、無念じゃ… おやすみ、レナ チュ」

『良い夢見てね チュ』

レナもニッコリ笑って出て行った。

 

 そういえば、このシステムの利用料金を訊くのを忘れていた。いくら支払えば参加できるのだろう。死んだら支払うことはできないから、前払いかカードだろうか?

 

 それより… もしもこれが発覚したら、ホテルと関係者だけでなく、S階の御客様すべてが共犯になるだろう。世の中ひっくり返す一大スキャンダルになるな、とオレは思った。まあ、バレなきゃいいだけの話だ。

 

 

ロシアン ルーベッド 2-7節 思考法

7節 思考法

 

『じゃ話すからね、いい?』

 

 レナとオレは、今チーフ室にいて向かい合っている。レナは半袖短パンで、実に気楽な恰好である。照明の下の白い手足が眩しい。その愛しい足をオレの足に絡めながらレナが言った。

 

 『みんなもうお金が有り過ぎてね、この世の合法的な楽しみもやり尽くしてさ、生きる目的さえ見失っているの。でも明日も生きていかなきゃいけないでしょ。いっそ早く死んじゃいたいけど、自殺するほど苦しくもないわ。どちらかというと、いつか平穏な死を迎えたいけど、この分だと永く生きて生き恥さらすのもイヤだし、周囲にも迷惑をかけてしまいそう…できれば「安楽死」を望みたいな…』

 

 一息ついて、さらにレナが続けた。バックではオレの好きなaikoさんの「くちびる」が終わり、「ビードロの涙」が小さく激しく流れ始めたところだ。

 

 『そうだ、いっそイケナイことを楽しみながら、いつか自分が安楽に殺されるのを待つのも面白いかも… スリルかも知れないな… もし、もし最後の勝負に負けたとしても、とにかく『部屋からひとり』の代表を出せば良いのだからさ。

 はじめは十部屋くらいの滞在者が退屈のあまり始めたチキンレースみたいなものが段々と加熱して…ね。そんな人が口コミ的に集まり、ホテルに依頼する形で、今のカタチができてきたの…』

 

 こんな雄弁なレナを見たことが無い。オレは半ば呆れながらレナを見詰めている。レナはレナで、今まで溜め込んでいたものを一気に吐き出すように、述懐が止まらない…どころか加速していくかのようだ。

 熱い… 薄いズボンの生地を通してオレのふくらはぎはレナの足の温度の高まりを感じている。

 

 『部屋に三人なり四人なりが居れば、最終的に多数決に持ち込んででも自分は生き残るのだという人もいるの。中には遊んだ後でそろそろ捨てたい女とか若いツバメとかを半分騙した形で同居に持ち込んでね、処分を期待しているようなケースもあるんだって。もちろん自分の部屋から代表を出すときはそいつを提供してさ、翌日には退去手続きをしてしえばいいじゃない。ホテルは最終的にはおカネを持っている人の言うことを聞くわ、サービスで。だってビンボー人の言うことを聞くメリットは一つもないじゃない』

 

 ただし、なんでも良いというワケではなく、幾つかの約束があるのだという。その約束を厳守することで、今まで秘密を守って来ることができたと言うのだ。しかし最近は気が緩みがちで、時々ドクターが良い顔をしないことがあると注意があったらしい。

 

①生贄の顔を傷つけてはならない。

 理由は身体は服を着せて誤魔化せるけど、顔は難しいからだそうな…

②生贄は強力な痛み止め(麻薬)を飲む権利、または全身麻酔を利用する権利がある。

③生贄は特定の誰かに犯されることを拒むことができる。

④生贄は指名して性行為等を行うことができる。諾否は指名された者との合意で決める。

⑤生贄は死に方をリクエストすることができるが、死を拒否することはできない。

⑥生贄はS階メンバーに、死に様や死に姿を見られることを拒否できない。

⑦S階メンバーは生贄の死を幇助(ほうじょ)できる。諾否は生贄との合意で決める。

⑧死後はホテル指定の火葬場で火葬され…

 

『えっと何だったかな』とレナが笑う。

 

「お墓か供養かな?」 

と、初めてオレが口を出す。

『そうそう、永代供養だわ』

レナが言うと、ちっとも物騒に聞こえない。そして、それがちょっと怖い。

 

 以前、サブチーフの電話で言ってた

『今日も顔まで行きかけた』って、①に関わることかも知れないな。

 

「あとさ、気になったんだけど、いい?」

『どうぞ、なんでも』

「⑦の幇助って、早い話が殺人だよね」

『ん… そうともいうね』 レナは否定しなかった。

『お金ベラ棒にかかるけど、みんな気にしないから。〈特権〉て呼ばれてたわ』

 

 なるほど、そういうことか、わかってきたよ。

 

 

ロシアン ルーベッド  2-6 同化

6節 同化

 

 不思議なことに… これで万事丸く収まってしまった。つまりオレの提案は受け入れられ、オレもサブチーフに昇格して働いている。同僚の中村は、未だにあのときのオレは怖かったと笑うことがある。

 

 オレはオレで、いつまでもハンターに狙われたくはない。奴らだって、オレみたいな小者を追いかけるのに、多額の費用と人手を掛けるのはバカらしい。結局双方に利益があれば、ヒトは手を結べるのだ。

 

 そしてもうひとつ、笑いの止まらないメリットが転がり込んできた。それは…

そう、レナである。こうしてオレとレナは晴れて自由に話せる身になったのだ。

 

 すべてが落ち着いたあと、アタシが知ってる分だけよとことわってから、ミナが死んだあの日のことをレナが話してくれた。

 

 レナが居た場所は、あの日のS階ロビーである。ワイングラスやタンブラーを傾けて談笑が弾む。ちょっとした社交場のムードが自然に漂っている場所だ。

 

『あんなにしてしまうの、ちょっと惜しかったんじゃないか』

『ふふふ、今日はなかなかの上玉だったね』

『あはは、久しぶりに劣情を催したよ。あのあとね、ガールをコールしてしまったよ』

『うふ、あんたもかい。道理で今夜は出払ってますと断られたわけだ』

『あのカラダ、傷つけずにワシのものにしたかったな』

 

『ちょっとやり過ぎだったよ、それにしても… あれは』

『赤ちゃんはさすがに、な』

『ヤツには「美」というものがわかっとらん、やっぱり。特におっぱいの、な』

『うむ。あのバストトップは見事だった。惜しいなぁ』

『同感だね。しかも腸も心臓も美しかったぞ。私は肺の美しさに感動した』

 

『わたくしはね、あの横隔膜と胎児を焼いて食べてみたいと思ったよ』

『小生は、あそこまで腹を開くことはないと思う。やはりあの年頃は外見だよ、うん』

『惜しかったな。きょうこそ権利を行使すれば良かった。後悔してるよ』

 

『アナタ何言うの、アタシという美人が隣に居るのに…』

『そうは言うが、もうおまえじゃピクリとも反応しないのさ』

『ま、失礼な。でも私でも触れて見たくなるような肌だったわ、口惜しいけど』

『そうね、私だって若い頃なら負けなかったわよ。今は完敗だけどさ』

『ははは、自分で認めてどうする? 今夜はワシが…おっと失礼、ガールが来るからね』

 

 ミナが亡くなった、あの日のホテルS階。社交場にしては、物騒すぎる会話が弾んでいた。話題をさらったのはもちろんミナだった。S階の大部分のヒトがミナの死に様を見物に出掛けたという。レナは涙をこらえて、部屋の隅で祈りを捧げていたらしい。

 

 あの日、白羽の矢が立ったのはミナの部屋だった。一日ごとに部屋番号が変わるという軽部の話は本当だったのだ。同じ部屋でないと引っ越しばかりが多くなり、長く暮らすには不便である。

 そこで部屋は同じにしておいて、部屋番号をシャッフルするのだという。ただそれではルームサービス等に支障が出るので、一つの部屋には、旅館のように二つの呼び名があるのだそうだ。例えば、S一階の最も東の部屋の名前は「東風(こち)」であり、本日の部屋番号は「S87」です、というようなことになる。

 

 ふと思い出して聞いてみた。「ほおおお」ってあった? レナは美しく微笑んだ。きっと「鳳凰(ほうおう)」の間のことじゃないって。オレは「ほ~おおおっ」と感心して見せるしかなかった。

 

 では、部屋番号は何のためにあるのか。

 それは… 犠牲とでもいうのか、夜のショータイムの生贄(いけにえ)を提供する部屋を指定するためにある、というのだ。なるほど、ただ住むだけならその辺のホテルでも老人介護施設でも構わないはずだ。

 

 全室分の部屋番号は毎朝五時五十分にホテルのコンピュータがシャッフルして決めるが、まだ発表はしない。六時になると昨日の予選を第一位で勝ち抜けた部屋の代表が、任意の四つの部屋番号を選び、コンピュータに入力する。コンピュータは六時十分、その両方を同時に発表するのだ。少しでも時刻に遅れれば、昨日予選第一位の部屋が強制的にエントリーされるのだが… これもスリルの一つになっており、結構ギリギリまでわざと入力を遅らせるのが流行りなんだとか…

 

 だから、前日第一位勝ち抜けの部屋が、またまた自分の部屋を確率 4/100 で選んでしまうこともある。そして八時からは、選ばれた四つの部屋から代表が出て、弓矢かエアガンを選び、厳正な勝負をする。

 

 勝ち残るためには、的の真ん中に一ミリでも近く当てるしかない。勝負に負けた部屋には即座に監視が付く。その部屋からは必ず一名の生贄を出すというのがS階のルールなのだという。みんなが生贄になることを理性的に承知しているのなら、なんかそれでもいいじゃないか… という気もしてきた。

 

 こうしてオレも毒されていくんだなぁ… この世のものとは思えないルールだった。

 

「何の目的なのさ」

思わずレナを問い詰めてしまった。

『S階のヒトはね、なんかもうブッ飛んでるのよ、考えが』

 

 しぶしぶレナが語り始めた内容をまとめて紹介してみよう。途中で胸糞が悪くなったら、読むのを中断してほしい。

 

 

 

ロシアン ルーベッド 2-5 間一髪

5節 間一髪

 

 三日後、オレはグランピングもできるキャンプ場にいる。あのあと元居た街をバスで走り抜けて反対方向に出てみたのだ。そこから北に向かって、この場所に来た。

 

 途中の大手リサイクルショップで古着を幾つかとリュックを買い、必要な品を揃えてみた。ホームレスに混じっても良かったが、ここは休養してみようかと洒落こんだのである。物価は高いが、カネがあれば生活には困らないし、シャワーもある。器具はレンタルだし、フロントに行けば新聞も読める。

 

 ただし雨は困る。昨日は雨で、ヒマを通り越して、初めて雨音を数える経験を積ませていただいた。晴れの日には、鳥も景色も星空も見飽きることがない。望遠鏡とカメラを持って来れば良かったと思ったが、レンタル料金を見てさすがにビビッてやめた。

 いいのさ、オレには肉眼があるじゃないか。

 

 キャンプはいい。まずメシがうまい。ちょっと煙の臭いが付くのが、むしろプレミアだ。そしてヒトと関わらなくても良い。夜の空気が最高に良い。だれも居ない山の中のキャンプは、その静けさが本当に恐ろしいが、ここがキャンプ場で物の怪(もののけ)と怪しい山賊が出る気遣いはない。オレは本当は小心者のビビりなので、「八尺様」とか「くねくね」とか「やまのけ」等の怪談はノーサンキューで、できれば遠慮したいのだ。

 

 今朝の某地方新聞の広告欄には、待望のものが載っていた。

『サチコへ父危篤すぐ帰れマチコ』

 ホッとした。しかしあと十日は静かに暮らそう。毎朝新聞を読まなくちゃ。しかし…

 

 それから五日後の夕方、オレはたまたま管理棟のトイレからテントに戻るところだった。開いた窓から、オーナーの声が響いていた。

『ああ、いらっしゃいますよ。はい、かれこれ一週間… ええ、今夜もお泊りですよ、

はい。あ、お知り合いの方ですか。ああ、はい、なるほど、サプライズですね』

 

 オーナーの視線の先に、オレのテントがあった。

 

 十分ほど時間を潰してからテントに戻り、夕食の支度のフリでトンズラの準備を始めた。近くのテント仲間がオーナーと話し込んでいるのを確認して、炊煙を上げたまま近くの藪にそっと隠れこんだ。

 近くの小さな川を裸足で何度かわたったり、戻ったり、遡ったり。これは警察犬を警戒した行動である。臭線を消すには、水を渉れば良いのだ。最後には川から直接木に登り、横に十五mほど移動してから地面に降りた。

 

 歩いて行き過ぎておいて、少し戻る「戻り足」というテクニックも使ってみた。

 

 猟師に追われたヒグマがこのテクニックを使うと聞いたことがある。歩いて止まり、自分の足跡を丁寧に踏んで戻る。数m戻ったら、ぱっと横に跳んで隠れている。やがて猟師が足跡を追って近づいてくる。隠れ場所から数m行くと、不意に足跡が途切れている。

『やばっ、戻り足だっ』と気付いた時には、後ろからクマが襲ってくるという。

 

ぎゃぁ!

 

 オレは戻って、横に飛んで、そこから木に登って隣の隣の木から降りるだけだけどね。

 

 そのときクマならぬクルマが登ってきて、四十mほど先に停車するのが見えた。ハイビームのライトが眩しい。こんな時刻に…たぶん追手だろう。おれはイライラしてきた。

 

 その次にとった行動は、自分でも意外なものだった。

 

 クルマから降りた二人は、間隔を開け、声を掛けあいながら藪の中を進んでくる。おれはその中間を軽く突破して車に近づくなり、いきなり後部席のドアを開けた。

 

 そこに居たのは、あのサブチーフ中村だった。驚愕の中村の首にナイフを突きつけ、刃を食いこませながらドアロックと発車を命じた。中村はちびりそうな表情で肯いた。ゆっくり一キロほど走ったところで、今度は徐行しながらの電話を命じた。

 

「中村さん、これじゃキリがない。オレを殺すより味方にした方が良いんじゃないの?親分に交渉よろしく。そう、中村さんと同じ待遇でいい。悪い話じゃないと思うが…」

『そ、そんな…』

「親分にこう言ってよ。オレと中村二人を失うのが良いか、二人とも無事が良いかってね。中村さんさ、アナタ命かかってるから、その気で交渉してよ」

 

 

ロシアン ルーベッド 4節 チェイサー(追跡者)

4節 チェイサー(追跡者)

 

 聞いたことのある地名だった。バスで二十個位先の停留所は、ホテルの最寄り駅から3つ先の駅名だった。1つ先の駅はマークするかも知れないが、3つ先なら急には手配できないだろう。もっとも近頃は防犯カメラが街のいたるところにあり、解析技術も発達してるから油断はできない。日本を取り巻く某国では、既に個人の顔の判別まで実施する国家的事業になっているくらいだ。

 

 警察の一部が奴らの味方だとすると、これは大変なことになる。もう1つ分のバス停を乗り過ごしたところで、あまり流行っていなさそうなお寺を見つけた。やむを得ない、今夜の夢… いや悪夢はここで結ばせていただくことにしよう。

 

 コンビニで弁当と飲み物、新聞・ガムテープ・殺虫剤と虫よけを買い、段ボールをいただいてこっそり寺の縁の下に這いこんだ。

 

 幸い暖かい季節だが、困るのは蚊である。新聞は張り合わせて虫よけとブランケットの代わりに、段ボールは当然敷き布団の代わりにするのだ。

 

 ちょっと落ち着くと異様な空腹感があり、コンビニ弁当がやけに美味かった。あたり一面に殺虫スプレーをブチ撒き、肌に虫よけを塗りたくって、とにかく今夜は寝ることにしよう… おやすみなさい。背中はごつごつと硬くて痛いけど仕方ないか。枕が欲しいけど、それはぜいたくというものかも知れない… この状況では。

 

 ふと斜め右を見上げると… 星がたくさん出ていた。

はじめて屋外で寝た。精神が疲れ切ったせいか、意外にもすぐ眠りに就けたようだ。

 

 翌朝… 早くに目が覚めてしまった。コンクリートに段ボールで寝たから背中や足や後頭部が痛いのは当然だ。

 昨夜のことがまだ夢のようだ。今からまた悪夢の続きを演じなければならない。お寺の朝は早いはず、見とがめられないうちに退散しておこう。町内の地図を見ると、ちょっと先に公園があるらしい。トイレと洗顔と一口の水はそこにお世話になることにしようか。

 

 今朝の身支度をとりあえず終えて、オレは茫然とした。これからどうすれば良いのだ?

 

 どこへ行けば良い? 答えはなかったが、このまま捕まりたくなかった。まず生き残らなければならなかった。

 

 このまま逃げ続けるのか? 逃げ切れるのか? 当面の資金はあるが、それもいつかは尽きるだろう。…とすると、奴らがオレの拘束なり暗殺なり成敗なりを諦める手立てが必要だったが、そんな方法あるのだろうか? 

 

 腫れぼったい顔のままでコンビニに出向き、なにやら疑われながらもおにぎりとイチゴヨーグルトを買ってきた。

  公園でおにぎりをむさぼり食い、顔を洗い、ついでに髪も洗った。人目に付きにくいところで乾くのを待ち、待ちながら周囲を警戒し、考え続けた。蚊に食われて搔きむしった二十数か所が重く腫れていた。

 

 10時になった。オレは町内地図で百均を見つけて、手紙セットと筆記具を買いに行った。今できることはこれしかない。それしかないなら、賭けてみるしかなかった。IR御用達のホテルに賭博的手段で対抗するなんて皮肉なもんだな… 気持ちのどこかにはちょっと余裕もできてきた。

 

 オレが手紙に書いたのは、ある意味和睦の提案である。手の内をちょっとオーバーに見せてみた。趣旨はこんな感じである。

 

 ①ホテルのS階の秘密はだいたい調査済で、具体的な証拠写真も持っている

 ②警察や医者や火葬場との癒着についても個人名を挙げて告発する用意がある。

 ③しかし、これ以上オレを追わなければ告発はしない。

 ④オレに危害を加えたり、オレが行方不明になったときには、某所から内容証明付の告発書をしかるべき所に送る用意はできている。オレにこれ以上手を出すな。

⑤承知なら、某地方新聞の広告欄に「サチコへ父危篤すぐ帰れマチコ」という広告を一週間続けて入れること。それがお互いのためだ。

 

 ほぼ同文の手紙を二通用意した。1通はホテル宛てに郵送し、1通はもしも追跡者が来たら何とか渡すための手紙のつもりだった。

 

 ちなみに… 本当は、

 ①はフェイクで、そんな証拠までは押さえていない。知っているのは状況だけである。

 ②は推測しかない。

 ③が一番言いたいことだ。

 ④は脅しだが、実体は今何にもない。

 ⑤はコミュの手段である。

とりあえず奴らの出方を探っておきたかった。

 

 全貌はなんとなく見えてきていたので、8割フェイクの手紙に賭けてみたのだ。1通の手紙にはホテルの住所とサブチーフ中村の名を書き、タクと署名して郵便局から発送した。投函場所が消印でバレてしまうから、また場所を移動しなければならないが、ここがバレるのに2日はかかるだろう。

 

 ややや、しまった。

 

 たった今、無意識のうちスマホをONにしてしまった。これはマズい。緊張のあまり、なんでこんなチグハグなことしてるんだオレは。いいか、とにかく落ち着け、落ち着くんだ。

 

 そうだ、どうせならついでに一度スマホを見ておこう。レナから2通のメールが入っていた。

『こんばんは、バイトいつ終わる』

『ねえどうかした? なんか様子が変。見たらすぐ返信して』

 

 やっぱりだな…

 

「レナ、例の件。疑われたオレは逃走中。レナが心配でDMしたよ」

基地局電波で場所がバレるからスマホOFFにする。心配かけてごめん、愛してる。命懸けて愛してる」

送信して、すぐ電源を切った。

 

さあ、これからどうなるだろう。

本当に命懸けの鬼ごっこが始まってしまった。

 

 とにかくバス停1つ分歩いて駅に行こう。あとは歩きながら考えるしかない。

 

 ふと下を見た時、おれはまたまた失策に気付いた。このグリーンのTシャツは目立ちすぎる。昨日は良かったのだ、これで。しかし一晩経って、昨日の逃走の検討が行われたなら、おそらくもうバレているに違いない。

 

 そして… 郵便の投函はまだバレてないとしても、スマホのONは致命的だった。関係者や協力者が「スマホキャリアに潜入しているなら」オレがバス停一つ分を歩く間に、基地局を割り出し、電話連絡で近くの警官か関係者を割り振る。

 

 そんなこと簡単じゃないか!

 

 ラインは便利だが、その気になればキャリアに依頼して基地局を辿ると、現在地がわかってしまう危険がつきまとう。それがわかってて郵送を選んだのに、オレは何してるんだろう。

 

 気付くともう駅の近くだった。警戒してみよう。立ち止まっていかにも気持ちよさげに、そっとあたりを見回してみた。すると片側二車線の対向車線側に、きつめのブレーキを掛け、停まる車があった。運転手を除く二人がドアを…

 

 しまった、アレだ… いや今発見できるなんてむしろラッキー!

幸い交通量はまずまず多い。

 

 オレは彼らに手を振ってみた。彼らは身振りで

『止まれ、待て』と言っている。

ひひひ、誰が待つもんか!

 

 オレは例の手紙を取り出し、

「ここに置くよ」

と示して、近くの塀の穴に差し込んだ。すぐさま近くの緑豊かな公園に向かって走り出した。

 

 奴らはまだ道路を渡れずにいた。この場合危険なのは、むしろ車である。大きな通りでは一瞬で追いつかれてしまう。オレは公園を派手に走り抜けて小路に入った… と見せて実は物陰で様子を見ていた。走るのには少々自信があったからだ。

 

 クルマはオレの進路を抑える方向に走りはじめた。二人は追跡を諦めたらしく、手紙を調べている。オレは身を屈めて公園に戻り、よく茂った木に登り、緑の中に身を潜めた。ちょうど保護色というか、擬態になって具合が良い。

 

 やがて二人は公園に来たが、オレには気付かないままに公園を出て行った。一時間十分経って二人が戻ってきた。しばらく電話でどこやらと連絡を取っているようだったが、やがてさっきの車に乗り、去っていった。やがてオレも木から降りて、ちょうどやってきたバスに乗った。バスは昨日の街に向かって走りだした。

 

 どこ行きなのか… 行き先は着いてみたらわかるだろう。

 

ロシアン ルーベッド 2-3 ヒットマン(暗殺者)

3節 ヒットマン(暗殺者)

 

 …とすると、二つの問題がある。

一つは次の生活の拠点をどこにするか、もう一つはレナをどうやって連れ出すか。ただし、レナには悪いけど、今だけは彼女を諦めなければならないかも知れない。レナは現在もS階の住人だし、成人しているとは言え、保護者に黙って連れ去ってよいものか。ここはレナが、家族を見捨ててついてきてくれなければならない。

 

 仮に奴らからうまく逃げられたとして、レナが保護者に一度でも連絡をとったら、すべては水の泡…何にもならないではないか。逃げる以上、レナは諦めるべきだ。気持ちとしてそんなことはできないのだが、自分の命があるからこそ、レナを愛せるのだ。例えば三か月経ってからそっと連絡を取ればなんとかなるだろう。

 

 逆にレナさえ居なければ、オレの住む場所はどうにでもなる。こうして書けば何ということもないが、この結論に達するまで実に四日を要した。もう仕方ない。ゴメンね、レナ。

 

 密かに身辺整理を始め、重要荷物を2回に分けて義母に送り、脱出決行まであと二日に迫ったあの日…

 

 間もなく夜のシフトと交替する時刻に、例の軽部が話しかけてきた。

『タク、今ちょっとダイジョブ?』

「あれ、今日先輩ここのシフトだったんですね」

『ああ、急に替わってくれって頼まれてさ』

「はは、タイちゃんでしょ、頼んだの。」

 

『よくわかったな… それでさタク、このあと一杯行かんか?』

「先輩、オレ最近体調良くないんすよ」

『うん、この間おごってもらったし、ちょっとね先輩として』

「はは、いえいえ」

 

 答えながら疑問符が付いた。このヒトこんなこと言うヒトかなぁ?

 

 軽部は周囲を見回して、小さく付け加えた。

『それにS階の話も、ちょっと、な』

「なるほど、わかりました。じゃ、明後日にでもいかがです?」

『今日はダメか?』

「実は… 体調あんまなんで今日はやめときます、ごめんなさい」

『オーケー、じゃ明後日空けとけよ、スケベジュール』

「スケベって… ははは、いっぱいゴチになりますヨ、先輩」

 

 これは黄信号だ。

 

 そろそろ逃げ時だとオレは判断した。さりげなく控室に戻り、黄色に黒縞の私服に着替え、財布と身分証明書をポケットで確かめた。他に貴重品は無い。

 

 あとはそっと抜け出すだけだ、と思った瞬間、サブチーフが入ってきた。

 

 心臓がでんぐり返った。

 

『タク、もう帰るのか。』

「あ、ああ、三分ほど早いですが、ごめんなさい、実は…頭痛くて」

『まあいいや、調子悪いのか』

「ええ、はい」

 

『そ、そうだ、タクはいつもよくやってくれるから、時給上げようかって話があってな』

「それはありがたいです」

『無理でなければ、このあと…五分で良い、チーフ室に来てくれよ』

「は、はい、わかりました」

『こんな話、他に聞かせたくないからさ、悪いな』

「はい、じゃ薬飲んでトイレ済ませたらすぐ行きます」

『うん、じゃ待ってるぞ』

 

 サブチーフを見送って、オレは予感的中を確信した。もうトイレどころじゃない。

 

 幸いこの部屋は一階で、小さいながらも窓があった。

 

 もうここしかなかった。おれは小さめの窓に身体をねじ込んで外へ出た。

 

 靴は室内履きだが、この際そんなこと言ってられない。もう自分の部屋に戻ることさえ危険だろう。ホテルの裏口だって監視されてるに違いない。

 その点正面入り口には客がいて、お互い派手なアクションはできないだろう。

 

 今から外出する客の集団にまぎれこみ、談笑しているフリを続けながら正面出入り口の門を出た。近くの有名量販店に入り、エスカレータで一階から二階、二階から三階に上がった。そのまま三階から二階に降りて尾行の有無を確かめる。オレの後を同じように二階に降りる奴がいれば、そいつが尾行者だ。もし居たなら走るか、無理やり店員でも話しかけて様子を見るしかない。

 

 良かった、今のところ大丈夫だろう。もったいないけど、二階でサングラスとグリーンのTシャツとスニーカーを買って着替え、替えた服は物陰に押し込んで隠した。

 これ、万引きの逆バージョンは何という? 万押しだ! まさか!

そもそも何で万引きって言うのだろう?

 

 いやそんなこと考えてる場合じゃない。妙に落ち着いてる自分が不思議だ。これは夢だ。

 

 とびきりの悪夢だ。

 

 階段を使って一階に降り、別の出入り口から外へ出た。夢にしてはおかしい。心臓の動きが意識できるくらいの、激しい動悸を感じていた。

 今は交感神経全開、ノルアドレナリンだだ漏れで身体が動いてるんだ。


 交感神経は「普通じゃないとき」にいっぱい活動するんだぞ、とあの生物教師は言ってたなぁ。先生、オレ覚えてたよ。アイツはきっとこんなオレを誉めてくれると思う。


 そうだな… ちょうど、自転車でコケる瞬間に、あ、やばい… 今時間がっくり進んでるっ…ていうアノ感覚がずっと続いてる感覚なんだよ、センセイ。

 

 元来た通りの方で走る人影が見えた。もしかしたら追手かも知れない。彼らはオレの顔を知ってるし、オレの服も知らされているだろう。オレは三人組の若者と歩調を合わせてゆっくり歩き、たまたまやってきたバスに乗り込んだ。行く先は着いてみればわかるだろう。

 

 ごめんねレナ、しばらくはサヨナラだ。スマホの電源もここでOFFにした。オレだってさびしくてたまらないけど、命がないとレナを愛せないんだよ。あとでいっぱい謝って奉仕させていただこう。

 

 ゴメンね、レナ、レナ、れな…